大気の底 − 粒子の海






大気の底






大気の底 − 此の世の春


大気の底
此の世の春
遥かなる呼び声
身を委ねし者
明るい時刻の躓きの唯中で






藍色の山系


重力の恩寵をいっぱいに浴びてみっしり重たい大気の底
黄緑の また白銀の蛍光色の飛沫が飛び交い
非毛氈を敷き詰めたような密度の濃い大気圏の中
藍色の山系はいよいよ深まる孤独を満喫している







碧い深淵(ふち)


まだ産声をあげる以前の山や樹木や河原や丘が
亜麻色の呼吸をゆっくりしながら
最期の至福の眠りを愉しんでいる
アクリルのような水飴のような どっしり重たい大気の底







孤独


大気の底で
山は独り
私も独り







亜麻色の大気


地の淵よりもなお深く この先は「行止り」のサイン
永かった空中遊泳の日々が終焉したかのように
あらゆるものがここから萌え 大輪の花咲き誇るような
アクアのような琥珀のような 亜麻色にまぶしい大気の底







降臨


ふと気がつけばあたりに何者かが降臨している
いや この私が何者かによって身ごもったのだ
何も眺めていやしないのに きりりと見開かれた黒い瞳が
この類稀れなる降臨祭の生き証人







パントマイム


(はてな?)
(それは記憶の中で語られるように
 まるで虚ろなカテドラル
 きらめくドーム空洞のようだったよ)
被造物(つくられしもの)たちの咽び泣き
彼等の演じるパントマイム
(台詞として受胎するにはあまりにも意味深長で
 そのくせ何も伝えることなど無きが如く)
(いや 啜り泣いているのではない
 それはただぷるぷると震えているのだよ
 この無風地帯の只中で)







ディスタンス


それは雲母摺り浮世絵本風の二重映しの魅力です
此の世の春とあの世の碧さ...
あらゆるものがそこにあるのに
その奥底に広がっているのはがらんと冴えた青空ばかり
桜の花は満開なのに 聞こえてくるのは森の静寂ばかり
色々なものが透明感を持ちはじめ
果たしてもうそこに在るのだか無いのだかわからない
ここにあるもの皆のうしろに
あの凄味を帯びた碧さが透けて見える
無数の人がさざめいているのに 大気の底で私は独り







満開の桜の樹の下で


満開の桜の樹の下ではふと気がふれる...
幾万と降りしきる粉雪のような薄桃色の花弁が
あたたかい風の狂気を運んでくる
その瞬間 山や樹々や森や大地が核分裂の如く崩壊し
銀河系誕生の頃の星間物質でできたカオス状の宇宙になる
それにつられてヒトの意識も
得体の知れない浮力によって方角も分かたず飛ばされる







春日狂想


(戯れ事を好きなだけおやりなさい)
(どんな犠牲を払おうとも?)
(もちろんです)
華やかな麗らかな一日
その藍色の大気の遍くひろがりの内部で
様々な舞台裏での役者達の一群が
いとも軽やかに空中ブランコや宙返りを披露している
(しかしすべては夢の夢)
そう感じている私もなんだか夢のよう
すると私と非−私の境界線がみるみる曖昧になり
私が無限四方に散らばってしまったのか
或はミクロの粒子になって蒸発してしまったのか
とにかく暖かな明るい波動の中を夢見心地にふわふわと
行きつ戻りつうたた寝の揺籃のように
私は何者かに祝福され また絶大な加護を受けている







此の世の春


どこからともなく暖かい風が吹き
それが古昔の遥かな薫りを運んでくる頃にはもう
私の裡でもなにかがおだやかに流れはじめ
黄色なもやになって広がってゆく
もう何百遍も通った昔の散歩道を
今また初めて歩いているとでもいうような
甘ったるい気配に満たされて...







粒子の海







行方不明の海


ぷつぷつと海はつぶやき また蒸発しはじめ
真青にふくらんだ水平線の向こう側へと遠退いてゆく
   行方不明になった海...
塩水の痕跡が無数の波紋になって
きらきらとまぶしい二酸化珪素に貼りついている







あわだつ海


その旺盛な浸蝕作用で
森羅万象を形づくる それぞれの粒子を感応させ
そのためあたりは
新鮮なシャワーを浴びてまたみずみずしく甦る...
あわだつ気泡ゆるゆると立ち昇る 今日の粒子の海







尋常の海と粒子の海の対話


(ずいぶん派手ななり服装をしてるじゃあないか?)
(いえね)
(なにかびっくりするような事でもあったのかい?)
(いや たいした事じゃない
 ちょっと目玉がくるくるしているだけさ)
(なるほど それで仮面舞踏会のゲストさながら
 豪華絢爛極まりないドレスという訳だ)
(まあ そのへん)
尋常の海と粒子の海の対話







不可視の海


(彗星の尾っぽと土星の輪っかが或る日突然衝突したら
 どんな由々しき大事が持ち上がるであろうか?)
(なあに 彼等は唯一無二の親友の如きだから)
(で どうなんだい?)
(うるさい奴だね 知るもんか)
(熱き抱擁でもするのだろうか?)
(それはまあ 無きにしも非ずと)
(はたまた
 後にはもうもうとした砂煙りが立ち昇るばかりで御座いました...
 とでもいうのだろうか?)
(素敵な砂漠の夜話の大団円!)
(まさしく!)
(いや 彼等は温度に低い星だから
 粉々に砕けて方々に散り散りになって
 夜天をめぐる透明な波打際になると思うよ)
(星間物質による不可視の海)
(大気も海も一緒くただ)
(ふうん)







大海原(おおわだつみ)


つまりそれは液体でも気体でもなく
ましてや現象界における海洋ではさらになく
至るところに遍在し 涯ては大気圏にも浸透している
あらゆる物象を構成しているエレメントのことを
仮に粒子の海などと呼ぶ訳で...







アクア


水なんてものじゃないのです
空気なんてものでもないのです
その両方をオーバーラップさせたようなもの
(気体の軽さと上昇性 液体の潤いと流動性)
それなのに(いや却ってそのために)
そこが透明になるのです
その透明なクオリティそのものを
アクアと呼んでみるのです







祈願


朝のうちからわけも分からず歩きまわり
身のまわりの細々としたことや その時に必要なことをやり
すべてものごとが起こるままに 起承転結もそのままに
時間の流れの中に浮かび またはその渦中に寛いで
なんの不自由もなく注文もなく 滞りなく終わった一日は
今日はとても収穫の多い日だったと 実りある一日を過ごしたと
何か特別なことをしたわけでもないのに
何故か物みな 人みなが
極彩色の宇宙の中の綺麗な熱帯魚のように
さわやかな記憶のつらなりとして映り
その群れの中の小さな一匹が
(明日もこのようであれかし)と
祈るともなく祈っている粒子の海







黄金伝説


百億光年の孤独を背景に
みんなと一緒に青い惑星に載って巡り続けるメリーゴーランド...
   至福の百年 陶酔の万年
アカシア色の混沌の中で塵埃の如く煌めきながら
水色製のオルゴールの透明な啜り泣きを聴きながら
それが幾世紀を経ようとも
やはり私は歓喜に包まれ永遠に巡り続けても構わない
真珠母色の銀河の渦のライムライトに放心しながら
こんなに素敵なみんなと一緒に無数の煌めく砂粒になり
   笑いながら さざめきながら
青い惑星地球が浮かぶたったひとつの海に蕩け
薔薇色のシャンペンより軽やかに ペパーミントより爽やかに
あてどなき宇宙の放蕩児(みなしご)達のささやかなお喋りに陶酔し
夜空に咽び泣く彗星の軌跡を横目でなぞりながら
泡立つ気圏の玉虫色のアンドロメダを背景に
或は爽やかな風になり 或は哀しい歌になり
   放心の千年 くるめき眩暈の万年
偽時間・偽空間の熱帯の のぼせあがったプランクトンより賑やかに
さざめきながら煌めきながらセピアカラーの海に蕩け
塵埃の如く泡沫の如く甘い吐息に酔い痴れながら
ちかちか光る綺羅星の透明な子守歌を聴きながら
それが幾世紀を経ようとも やはり私は至福につつまれ
夜空に瞬く御伽の国のアカシア色の混沌の中で
   きらめきながら わななきながら
ぼんやりかすむ土星の輪っかのパントマイムを眺めながら
百億光年の孤独の中を不思議なメリーゴーランドに載って
あてどなき宇宙の沈黙(しじま)に浮かぶこんなに素敵な放蕩児達と
永遠に巡り続けて構わない







春色のマルレーヌ


春色のマルレーヌはほんの僅かにルナティックであり
時偶 人目を憚るほどの道楽者であり
リラの花咲く放心状態の波打際で
シエナ色のデカダンスに耽っている
   闇夜に煌めく精神の廃墟
オブジェ物象を貫く晴れやかな瞳は
毅然としていながら見開くほどに謎に満ち
つい先刻まで遠くの空を眺めていたのが
今や強烈なジャスミンの香りに昏倒している
   サフラン色のかなたこなた
してその正体はといえば異人であり
その消息は審らかでなく
蛍光色のちかちか光る前後不覚の波打際で
「在りし日」の徒然を恣にしている
艶姿の春色のマルレーヌ







あなたは追憶のように美しい


あなたは追憶のように美しい
(私の肌に触れもせず 私の声を聴きもせず)
光のシャワーの只中にあなたの笑いは反響し
無数の波紋を風に残して空の彼方へ広がっていく...
(あたりの空気を震わせもせず ここで起きていることを絶えて知らず)
その美しさは涙がでるほど
それでもあなたと私の間には広大なスペースが広がっている...
あなたは追憶のように美しい
(その痕跡をなぞることも あなたが誰なのかも絶えて知らず)
あなたは羽より軽々と踊り 一回転すると消えてしまった
あらゆることがかつて起こり そして消えていった波打際で...







私はどこへゆくのだろう


(ええ もうそうなんです
 ものごとは起こるがままに起こるのです)
(はて?)
(とにかく逆らわずにその流れと一緒に行って宜しいです)...
すると先程まで見えていたありきたりの山や丘や草原が
にわかに見知らぬエトランジェのように
金モールや金ボタンで飾られたドレスを着て 化粧をほどこし
どこかよそよそしくなるのです
リュシオンやエンディミニュオンが登場するのもこんな刻限
白い雲はマシュマロのよう
底光りするパールの空にぽかりぽかりと浮かんでいる...
その賑やかな舞踏会に見惚れていると
またしても魔法の呪文が働いて
ものごとは極く単純になってしまい
山は山であり風は風であり
空は空でしかなく人は人でしかないのに
にもかかわらずやっぱりどこかに魔術の香りが芬々として 私は
山は山であり風は風であるのか
山は山ではなく風は風ではないのか
すっかり混乱してしまい
途方に暮れて瞳をめぐらすのだった
...私はどこへゆくのだろう









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