南方綺譚










前日 − The Day Before


空白の日々 旅立ちの
その前日の空白の時間
待つこともなく待ちながら
日々の流れにたたずんで
過ぎゆく夢を眺めれば
春が来ようと来なかろうと
もう一向に構わない






The Day Before


Empty days, empty times
Of the day before I go
Waiting, but wait for none
Standing still in the flow of life
Seeing dreams, passing by
Do not care, I never care
Whether the spring will come, or not










臨在 −  Presence


何も語らず 一際を語らず
唯々そこに在ることほど
まばゆいばかりの臨在ほど
私の全霊を震撼させるものも
やはりまたとは無いのです










月の宵 −  Moon-lit Night


こんなに月が綺麗な宵には
真白なおろしたてのシューズを履いて
夜露の降りた草叢をしんみり歩いてゆきたいのです
耳の奥では鈴鳴りが 星の空では瞬きが
もうどこまでも続いていって
そんな寂けさの裡へなら
永遠に逝ってしまっても悔いはないと
もうどうしても思うのです










老子の逝きし黄金のもや − Golden Haze


稀薄な大気 ゆるやかに湧きあがり
きいろな明るみ あたりいちめんに浸透し
   風も無く おだやかな一日
   雨も無く やわらかな大地
目には見えない純白の 綿毛のほのかさに恍惚りし
物質的ではない霊液の みずみずしさに沐浴し
やがては離れなくてはならぬ この現世を泡沫と感じ
   おお のがれゆく蜃気楼
天界(てん)の割れ目からひかりがこぼれ 昇る蒸気を虹色に染め
(いずれ私も蒸発するのだ)と そして
(元素に還元されてしまっても悔いはない)と
こんなあふれるような純真な 弛まぬいとなみの中でなら
(誰にも告げずにある日ふらりと行方を晦ましてしまいたい)と
誰でも自然に思うのだ

老子の逝きし黄金のもや










浮世絵 − Ukiyoe


その一つぶ一つぶの塩辛い粒子の海に浮かびながら
あなたは 何を夢見るというのでしょう
その透きとおった藍色の潮の波濤に
睡みながら 崩折れながら
何を探すというのでしょう
何処へ去るというのでしょう
   郷愁の如き現し世よ
   惚れ惚れとする幻よ
黒く艶やかな丸い瞳は見開く程に謎に満ち
仮初の時の腐蝕に耐え切れず
或る一部分は溶解し 然もエッセンスは残留し
   淡々と流れ そして変わらず
   滞りなく 唯ひたすらに
鳥は声もなく啼き 河は音もなく流れ
   昔日の余韻さめやらぬ黒き水泡
   古えの煤けた写真館
   泣きたくなるようなディスタンス

激しき波濤に翻弄される 時間の漂流物である人よ
あなたは追憶のように美しい










懐胎 − Conception


...やがて
私の虚しい現身はステンドグラスと煌めいて
荒野を渉る透明な風をオレンジの砂に刻印しようと
渾身の希いをこめて祈るほどに
いつしかしみじみと何処からともなく
得も云われぬ芳香の漂い来たり
あたりは。うっすらと優しく明るみ
きりりと結んでいた唇も微笑となり綻んで
   巨きな歓びの嘆息か
   或は沈かな囁きか
そうして私の現身は遥かなる上空へと懐胎するのです










薔薇色のサックス − Rosy Sax


寧ろ私は煌めく上空を渉る
透きとおった風になってしまいたかったのです
薔薇色のサックスを吹きたいのではなく 寧ろ
鮮やかに飛沫もほとばしる
薔薇色のサックスそのものになってしまいたかったのです
境界線は消え輪郭はぼやけ 視界もぼんやり霞んでくれば
どこからともなく湧きいづる透明無比な海原の
その律動に唆されて
或はさわやかなかぜ微風になり
或は黄金色の詩になり
荒野の涯てまで流れゆき
いずれは愉快に消えてゆき...
寧ろ私は透明の薔薇色のサックスになってしまいたい!
(これもひとつの懐胎の経緯です)










流沙に呑まれて − Quicksand


時には際限もなくひろがる空の下
灼けるようなオレンジの流沙に呑まれて 無性に喉が渇いてくると
このままどこか遠方のあの蜃気楼のちらつくあたりへ一目散に飛んでゆき
ひんやりとして真青なオアシスにもうなってしまいたいと思うのです
みずみずしい樹液となってまばゆく光り もう滾々とほとばしり
すでに何も考えず 悲しいような儚いような
居ても立ってもいられぬようなそんな願いに満ち満ちて
黄色い砂塵はもうもうと声もなく旅人を誘惑し
その最期を待つとでもいうふうにそこはかとなく私を抱擁し
無窮に逃れゆく地平線に一層喉の渇きは増して
すでに何も考えず 悲しいような儚いようなそんな希いに満ち足りて
際限もない空の下
しんと湧き出すオアシスにもうなってしまいたいと思うのです










不在者(砦の跡で) − Absentee


さわさわ葉擦れの音がして 瑠璃色の大気は一層濃く染まり
がらんと煤けた見張塔の跡は昔日の記憶を喪失し
私の脳裡からもまた事象の脈絡がこぼれ落ち
然し却って旧約時代の頃に溯ったかのようでもある
シナイの砂漠に流浪の民に先祖還りしたかのようでもある
   曖昧な時間 覚束ない時間
混沌としていながらそのくせにくっきりとした輪郭の中で
   私の姿も何もかも一際含めて風景画
一秒と一千秒との違いが分からず こことそことの距離にたじろぎ
緑の空き地にしばらくしゃがんで草叢の波間を眺めていると 私は
(もう誰もいない処へ来てしまった)
(ここからあちら側へ戻ることはできないのだ)
と悲しいでも寂しいでもなく
(これはもうこうでしかないのだ)
と心の奥で決心し
すると風は軽やかに項を撫で 和らいだ背中を優しく揺すり
しんと静まる砦の跡には不在者達が降臨し
   とろけるような蜜の味
   ぼうっとするようなひろやかさ
どこまで深まるか終ぞ知れないそんな優雅なパントマイムで
佇む私をいつまでも もういつまでも誘っている










ふいにとぎれる音の隙間に − In the Gap of Sound


まるで黄土色のカーペットは西部の砂漠部隊のように
宙ぶらりんの時間の中でりゅうりゅう無言で波打っているので
私のぼやけた頭の中にまで生暖かい風が入り込んでいるようだ
天井の白い扇風機のプロペラが無表情にはばたいているので
綿毛と化した私の頭は一層しんとしてしまい
(ああ 私達は一体どこへ行くのだろう)
(この小さき人達を乗せる小舟はいづこの岸へと乗り上げるのでせう)
と心細い幼な児の台詞にぴったりな独特の雰囲気が訪れる
   旅先の宿屋の空気
これは或る運命的な事件の起こる前夜だ
…いや このお芝居のタイトル邦題は<…その前夜>とか申しまして
然し…それの正体いかにというと決して定かではありません…
そんな講釈師の呟きが底流のように床を這い
そのためにセメント製の部屋の隅々はやりたい放題に煤けている
   ここもまたひとつの荒れ野と化す
(私達は何者かの到来を待っているのでしょうか)
そんな気も私にはするのでした
(いえ 私達はこのままで完全に成就されているのです)
そんな気も私にはするのでした
分かることと言えばあの扇風機の鈍い唸り
それが一分間に幾回転するのかは瞳を凝らせば数えられるでしょうが
さて それが何のために回っているのかというと
それは杳として知れません
夕刻にはまだ早い午後の陽射しがその不確かさに拍車をかけるのです
   明瞭な輪郭 然も尚...
   沌々尚明也
先日木漏れ日の只中に座っていた折にもこの空白のスペースは顔を覗かせて
…告白しませばあらゆる機会に神出鬼没なこの空間…
ただ積もった木の葉の量だけが時間の経過を告げるのでした
つまり…それはかなりの浸蝕力であちこちに波及している模様で
私達が臆測するよりも広範囲で遍在している可能性が高いのです
...と言ってはみても尚且つ…それは鮮やかに行方を晦まし追手を逃れ
遠ざかりつつある地平線の如くするりするりと身をかわし
四方八方へ散り散りに雲散霧消という形態で遁走している次第です
さて それでは...
まるで黄土色のカーペットは西部の砂漠部隊のように
宙ぶらりんの時空の中でりゅうりゅう無言で波打っているので
私の呆けた頭の中にも生暖かい風が入り込んでいる...
そして最期にあのプロペラが止まった時には
私達はどこかの渚へ着くのでしょうか それとも
笑いながら戯れながら海の藻屑と消え失せるのでしょうか...
それも杳として知れません








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